□親愛なるカムパネルラへ
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海はとても静かで、
黒々と どこまでもどこまでも続いています。

天上では銀河が落ちてきそうな程、
星の明るい夜が口を開けて
覆い被さっていて、

真っ暗な世界の中で ぼんやりと
やっと判るくらいの水平線が
その銀河を押しとどめていました。


月の欠けた日で、
海と空の境目を見失うと まるでこの船は
星の海を航海している錯覚すらしてしまう 夜に。

熱帯魚のような黄色をした潜水艦の海賊船は、
方角を守りながら海を漂っていました。


寝静まった船内のどこかで、
誰かの囁き合いや夜更かしの気配があって。
不寝番達の交代や
航路を守る船員。

起きている者達はひっそりと
夜更けの沈黙に混じりながら、
それぞれの夜を渡っているのです。


その甲板で。
じい、と一つの方角の水平線を
見つめる人がいます。

その眼差しの向こうには、
まだ見ぬ とある国が在って、
とある人が居て。

でも彼は それよりずっと遠く、
とある過去を透かし見ているように
さびしくて深い瞳をしていました。


まるで泥の底は見えないように、
彼の瞳の奥にしまわれた様々なものもまた、
読み取る事は出来ません。

それでも。
彼が過去に何を秘めていても、
その瞳にどんな意志を隠し持っていても、
この船では許されるのです。

彼、トラファルガー・ローは船長であり、
皆彼が好きで着いてきたのだから。

船長の意志と生き方を尊重しながら
―――出来るなら彼が幸福になればいいのに。
そう 思っているのです。



夜の只中にぽつりと立ち尽くす彼の背中は
右も左も消えた暗闇の中で
そのまま沈んでいってしまいそうなくらいに切なく、
けれど自らの覚悟の指し示す先だけを
信じているように真っ直ぐで。

その往く先を照らし出す灯りを
持っていたなら よかったのに。

背を見ていた彼女はそう想いながら、
代わりに湯気の立ち昇るマグカップを
差し出す為に 向かうのです。


「キャプテン。…今夜はよい夜ですね」


差し出された白いカップの中身を見て、
彼はほんの少し、意外そうな顔を見せました。

この船で一番気の利く彼女が差し出したものは
いつも彼が口にするような
コーヒーやお茶類ではなかったからです。


「ホットミルク、おきらいですか?」

「‥いや」


その白は どこか懐かしいような色。
愛(いつく)しみと やさしさの元始は
きっとこの色であったからでしょうか。

カップの中はまるで穏やかさで
満たされているように見えました。

“眠れない時に身体にやさしいもの”

いつだったか彼女が眠れないと言った時、
ホットミルクを教えた事を ローは思い出したのです。

ミルクを温め、少しの砂糖を混ぜてやりながら。
ブドウ糖と一緒に摂取するといい、と
薬でも処方するような口ぶりで。
たった一人の女のクルーである
彼女を労わった いつかの夜。

きっと彼女は憶えていたのです。
彼から教わった、明日を手渡す方法を。


「…ほんとうに、よい夜。
ひどく静かで、わたしなんかはこころが深くて
上手く眠れないくらいに」


――だから、ここに居てもいいですか。
その問い掛けに ローは
カップを受け、口をつける事で返事をしました。



黒い波間には 月や銀河の光が砕けて
海いっぱいに散っていて。
それは濡れた磨り硝子の表面や、
あるいは万華鏡のように在りました。

暗い水平線を挟んで、空の底と海の表面は
ぼんやり明るくさえ見えるので
もし満月の夜だったなら どんなになっただろうか、と
彼女は想いました。

けれど今夜の月は欠けているのです。
そこに下ろされた仄暗さのスクリーンが、
彼に何か遠い想いを投影させるのです。


この船は船長の意志によって、
とある計画に向けて動きだしていました。
目的地に着けば、きっともう彼は引き返せないのです。

これから起こす事、起こる事は
このハートの海賊団の、というより
トラファルガー・ロー個人としての問題かもしれません。

それでもこの船は船長の為に動きます。
みんな、誰もかれも ローが船長をする
この海賊団が好きなのです。

だから彼が何を成す為独り何処かに往っても、
構わないのです。
此処へ帰ってきてくれたら、文句などないのです。

彼がちょっと“私用”で何処かへ寄り道して
帰ってきても、何事もなかったように
また今度こそ旅を続けるくらいに。
船長にとって必要な寄り道なら、尚更に。


「ねえ、キャプテン」

「何だ」

「キャプテンは今、きっと
計画の事ばかりなんでしょうけれど」

「まァな…」


遠い目をした人。

此処ではないどこかへ
半身を置いてきてしまった人。

だからきっと、彼が未来に進む為には
彼自身で過去へ
迎えに往かなければならないのです。


「キャプテンが、どこまでもゆくというなら、
わたしも どこまでも一緒にゆきます」

「…おまえは何故、おれの船に乗ってる?」

「…うまく、言えないけど、」

「あァ。かまわねェ」


ローが許すと、彼女はゆっくりと
言葉を零し始めました。

カップから立ち昇る白い湯気が
濃い夜の空に滲んで
やがてとけて消えてゆくように、

彼女の声もこの闇に盗られてしまわぬよう
ローは耳をそばだてて言葉をひろっていました。


「―――いつまでも、
手を握っててあげたい、と…想ったんです。
独りぽっち、どこまでもいってしまうこの人の
片方の手だけでも、
空っぽにしてしまわないように。
わたしはいつまでも握っていようと 想ったんです」


いつか出逢ったのは、
遠く昔の事のような気のする二人。

彼はただの医者にしておくには
あまりに昏い瞳を持っていて、

彼女は良きお嬢さんにしておくには
勿体ない冒険心をしていた、
そんな二人だったのです。

そんな彼女の
“自分の船に乗った理由”について
彼は初めて尋ねたような気がしました。

理由など関係なく、
乗せると決めたからには乗せるのが
海賊の船長で、
尋ねる必要など無かったというのが本当ですが。


ふと 聴きたくなったのです。
その唇から、その声で。

言葉で想いを説明する事の
不完全と不可能さを知りながらも。
ただの一度くらいは聴いておきたくなったのです。


「あなたは海賊だから、
どこまでもいける切符を持っていますけれど。
だから目的の為にどこまでも往ってください。

それがほんとうの幸いの為ならば、
独りでいってしまっても、いい」


この計画が彼の為になるのか。
それはわからないけれど。
そうする事で彼が何かひとつでも
答えを出せるなら。
何も無いよりは ゆくべきだろう。

そういう祈りのような気持ちが
みんなのこころには 在って。


「でも、最後は必ず
此処へ帰ってきてください。
だって、わたし達の船長なんですから」


たった一人だけの、わたし達の船長。

みんなあなたが すきで、
みんな あなただけのもの。


「いつか、何もかもが終わったら。
この世の果てまで連れていってください。

わたしたちの海賊王」


片方だけでも手をつかまえていれば
あなたはきっと 帰ってきてくれる

彼女の言葉は、
母親を見失わないようにする
ことものように純粋で、
お祈りのように 切ない意味に聴こえて。

ローはこれから暫く逢えなくなる、
このかわいいクルーの為に
そっと頭に掌を置き、
やわらかく髪を梳くように撫でてやりました。


腹の底があたたかく、
どこか心地よい思いがして、
きっと彼女が差し出した あの“やさしさ”が
効いてくる頃合いなのです。
カップの中身は空でした。


「…話は終わりだ」


見上げれば、
今だ銀河は幾光年の孤独に膨張を続け、
ひどく美しいそれらを
投げ掛けていました。

けれど、そんな孤独の真ん中に立っていても
もう何もおそろしい事などありませんでした。

彼の片方の手は固く結ばれて、
あの星の海に落っこちないよう
引き留められているのですから。


「いい夜だ。
…一人寝には勿体ねェ、おまえも来い」


そんな風に悪戯っぽい笑みを唇で描くと、
ローは彼女の前髪をかき上げて
額に唇をそっと押し当ててやりました。

彼にとってそれが
一等うつくしく、やさしい、
こころの返し方のような気がしたのです。



【親愛なるカムパネルラへ】
(あなたがくれたものをみんな持って
今終わらせに往きます)







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