□少年少女、春の名は知らず
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とてもおかしな事だとは思うけれど。

日本有数の大企業の本社ビル、
最上階に位置する 最も権威のある部屋で、
仕立ての良い上等のスーツを
造作もなく着こなした男の隣に

わたしは 居た。
町内の高校の制服姿で。

そして彼は同級生にして
この海馬コーポレーションの社長だった。
つまり、海馬瀬人だった。


土足で踏み付けるのが惜しまれるような
柔らかい絨毯、
応接用のソファとテーブルの一式。
彼の執務の為のデスクは木製で、
どっしりと構える様は重厚だ。

海馬瀬人は革張りの背凭れ椅子に
ゆったりと腰掛けて
背後には街並みを一望出来る、
全面硝子張りの景色を背負っていた。


「どうした。オレに用があるから来たのだろう?」


白のスーツ、黒のワイシャツ、青のネクタイ。
彼に最も相応しい色で、
彼は意地悪に微笑した。

上品なブラウンの髪に
蒼眸を持って生まれた彼は美しく、
またそれは氷のように鋭利でもあった。

端正な顔立ちも、尊大な程の自負も、
意志の固い眼差しも。
美しく完璧で 隙の無いもの程
あたたかみの欠けた印象を与えるのは
仕方のない事なのだろう。

けれど彼が冷たいだけの、
つまらない人間でない事は ようく解っている。

そうであったなら ゲーム・ホビー産業での
成功は不可能だろう。
きっと常人より感情が偏っていて、
特定の方面に熱くなりすぎて針が振り切れるだけなのだ。


「学校のプリントを持って来ただけで
社長室まで呼ばれると思わなかったから…」


ここ最近仕事で登校しなかった高校生社長にも
期限のあるプリントは一応
提出して頂きたいのが先生である。

けれどまさかこんな届け物位で
社長室に通される心づもりはして来なかった。


「社長だって知ってたけれど、
わたしは学生服の海馬くんしか知らなかったから。
ただの高校生が“海馬社長”と
直に会ってるなんて、不思議」


社長としての彼と会うのは 初めてだった。
学生服ではなく スーツで、
教室でなく 立派なビルの一室で、
自分の知る“海馬くん”とはまるで違って見えた。

それでも口を開けば
教室で隣の席に座っている時と
同じ態度で接してくれる彼が 有り難かった。


「このオレが社長であろうと、
お前には関係あるまい。
つまらん気負いなど無意味だ。
……オレが許しているのだからな」


そんな事よりも早く用件を差し出せ、と
彼の手はプリントをさらっていってしまったけれど。

最後の一言が 彼の中の、
最上級の譲歩(やさしさ) なのだった。



この人の言葉に他人を配慮する
こころが含まれるようになったのは、
本当に最近の事だ。

初めは今よりずっと鋭利で、
他者にも興味の無い 冷めた態度ばかり。
排他的であるせいで言葉を交わすのが
本当に難しくて。

まるで 他人にやさしくする方法を
忘れてしまったように。
自分のやさしさだって やわらかい形のまま
素直に差し出せない人なのだ。


出逢って初めの頃、まだ慣れない
彼の言い回しで
泣いてしまった事があった。
ひどく温度のない言葉を
投げ付けられたのだと思って。

あの時彼は 悪い事をしただなんて
決して言いはしなかったし、
至極面倒な事になった という顔をしながらも
結局泣き止むまでは 傍に居たのだ。


きっと、それからだ。
彼との関係が ほんとうに少しだけ、
変わった気がするのは。

同じクラス、隣の席。
たったそれだけの 関係。

今でもきっとそれは変わらないけれど。

挨拶を交わす、届け物をする、
それから少しだけ 彼の前で
つまらない話をする事を許された。

クラスメイト以上、友達未満の。
けれど外側から見る限りの彼の
交友関係の様子では、
親しみを許された方なのかもしれない。


けれどもそれは、
友情と言うにはあまりに不鮮明で、
繋がりと言うにも脆いもののような気がした。

それを思えば、やはり
この人が求めるのは 友人 なんて括りより
好敵手という存在なのだ。
たったひとつの 存在なのだ。


「オレを前にしてぼんやり考え事か。
――何を考えていた?」

「んー…、もうすぐ席替えだなぁって思ったの」

「それが何だ」

「わたし、これからもずっと
海馬くんと仲良しでいたいなって」


プリントの内容を追っていた彼のブルーアパタイトの瞳は
ちら、とこちらを見遣って、また直ぐに
活字の方へ向き直ってしまった。


「ばかばかしい。
お前はずっとオレの隣の席でいる気なのか」

「そうね、わたしそんなに上手く
席替えのくじ引き、引けない」


彼の席だけはくじ引きに左右されない
不文律の存在だ。
社長である彼は高校には席を置いている程度で、
不定期登校を考慮して 教室内で
机の位置は固定されている。
席替えなんて、万年固定席の彼には
ずっと縁遠いイベントに違いなかった。

彼はふぅん、と 呆れとも溜め息とも
とれない吐息を漏らして、
さも興味の無い事だという声音で言った。


「引いてみればいい。
それで答えが出るならな」


そうして手にしていた、保護者への
校外学習の参加許可証のプリントは
ぞんざいにデスクへ放られる。


「――ただし。
オレが隣の席だからといって誰とでも
口をきくとは限らんがな」


それから彼は何事もなかった風に
椅子から立ち上がり、
開発中のゲームのデータ取りの為に試運転に付き合え
だとか何だとかいう言葉を続けながら
部屋を出ていってしまった。


着替えてくると言っていた彼が
此処に戻ってくるまで、
彼が残していった難解にして
シンプルな言葉の意味を追いながら。
わたしはどうしようもなく彼の事を考えていた。



【少年少女、春の名は知らず】
(今はまだ 名前もつけずにとっておくの)










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